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いのちの瞑想

仏教と密教

『大日経疏』第三に
「所作あるにしたがってみな三摩地と相応し、
 花を献づる時の如き、花と三摩地と相応し、
 その中の本尊、明了に現前す。
 乃至、かくの如くにして、
 一一の縁の中に、みなこれ法界門に入る」
とあります。
三摩地は心の統一法、こころのまとめ。
でも、
無念無想ではない。
拝む対象と心が不二である、
主体と客体
(思うものと思われるもの、見るものと見られるもの)
が一如になる、そういう立場の瞑想が三摩地。
例えば、
月輪を拝むなら月輪になる、
蓮華を観想するなら蓮華になる、
つまりは、
大日になる。
お香、灯明、お水などのお供えも、
それらをいのちとして拝む、
そこに生きた仏を発見しようとする、
そうして、
肉身そのままに成仏します。

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