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存在とは何か

仏教と密教

物それ自体の独自の本性を自性 (svabhāva)と云います。
もの・こと・こころが、
常に同一性と固有性とを保ち続け、それ自身で存在するという本体。

そういうものは無い、というのが空の立場です。
常住不変唯一なものは無い。
必ず、縁と条件によっている、と。

宇宙も自分もすべては自性が無く空。
そうして、
宇宙の仕組みを知り、
そこにいる自分を知ることによって、
そうならば、いかに生きるべきか、と考え、
もっとも本来的な自分であるよう工夫し、
人格の完成へ向かう。

そのために、存在とは何か、という縁起論があります。

自分という特定の存在と、
宇宙とか虚空とか仏などの、だいたい不変の事実があります。
心もそう。
自分(個別)は宇宙(全体)の中に生きています。
全体は目の前に常に展開しています。それはどのようにして、生成されたのか。

密教では、
自分の現実生活での行い、言葉、思いを、
理想(仏、真如)の行い、言葉、思いと一致することを目指します。
そこが悟りの成就。

理想の行い、言葉、思いは、それとは別の姿を持ちません。
そして、
行いは言葉に等しく、
言葉は想いに等しく、
思いは行いに等しい。

自分だけではなく、
宇宙全体の形あるものが宇宙の行い、
全ての音声が宇宙の言葉、
全ての法則が宇宙の思い、

そのように考えます。

自分や宇宙の行い、言葉、思いが働きとなって、
現実の姿(これを曼荼羅と云います)があります。
それは、仏から見れば悟りの世界、凡夫から見れば迷いの世界。
その現実世界を目前に現わしているのが、
地水火風空識の六大、と密教では考えています。

世界存在の本体は六大、
姿は曼荼羅、
働きは身語意。

宇宙全体でみれば、みな六大所生ですから同体、
存在する限りのものは、本来的にそのあるがままに常住の仏、
すべて仏の説法の姿、如来のいのちのあらわれ。

しかし、

根源である六大が常住不変だとすれば、仏教ではなくなります。

六大も無自性であるはず。
自性の無いものには、始まりも終わりもなく、
不生不滅です。

『大日経疏』第七には、

「縁より生ずるもの悉くみな始め有り本有り
 今、この能生の縁を観るに、また亦修因縁より生じ、輾転縁に随う
 だれかその本たる。
 かくの如く観察する時即ち本不生際を知る
 これ万法の本なり」

とあります。

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