修行すれば、
生きているうちに成仏できる、
と説かれているのだから、安心。
『即身成仏義』には、
金剛頂経に説かく、
「この三昧を修する者は、現に仏の菩提を証す」
この三昧(妙観)とは、
大日如来が仏菩薩の一切の功徳をボロン(bhrūṃ)の一字に結晶して、
金輪仏頂尊の位に住するそれのことである。
また、
「もし衆生ありて、この教に遇い、
昼夜四時(晨朝、正午、黄昏、夜半)に怠りなく精進して修すれば、
現世に歓喜地を証得し、
後の十六生に正覚を成ず」と。
この教とは、
法身の仏が、
自らの心内の体験境地をそのままに開示せる、
秘密の大教王を指すのである。
歓喜地とは、
「顕教にいう所の初地に非ず。
自らの家の仏乗たる密教の初地なり。
すなわち金剛薩埵の本初の心地をいうのである」
また(大日経に)云く、
「この生に於いて悉地に入らんと欲わば、
その人の応じた本尊の作法に従って、
これを思念し修習せよ。
それには、まのあたりに尊師のみもとに於いて、
明法を授かりうけ、
これを如法に観察し、修行して、
本尊の境地と相応すれば、
自らの所願を成就することができる」
「菩提心論」には、
真言秘密の法の中においてのみ、
即身に成仏することができる。
ゆえにそのための方法として、
三摩地の法が説かれている。
三摩地というのは、
法身の仏の自らのさとりたる体験境地を妙観することであり云々。
田中先生は、『弘法大師と歩む』の中で、
「何でもかんでもいいけれど、
多くは知識にとどまりやすい。
知識ではなく実感でなければならない。
実感するためには実践すること」
と言い、
「それでも微々たるものにせよ、
なにか少しづつ少しづつ、
つまりは今まで見えなかったものが見える。
見えたものが見えんようになった代わりに、
見えなかったものが見えてくるところがそれなりにあるということですよね。
そういうことは、
こういうような道を共に学ぶということのささやかな喜びであるというような、
自分ではそない思うております」
妄想と希望と、
現実と真実と。
成仏とは、
しあわせになること。


コメント