仏教に捨身の話があります。
法隆寺・玉虫厨子に描かれている「捨身飼虎図」。
お釈迦さまが前世で、
飢えた虎の母子に、
崖から身を投げて、
自らの肉体を与える話。
お大師さまにもあります。
仏法により人々を救済する誓いを立て、
その願いがかなうかどうか確かめるため、
切り立った崖から身を投げた「捨身ヶ嶽禅定」。
捨身は事実ではありません。
『聖観音儀軌』には、
次に身を捨てて供養すべし。
その時まさに、この言を作すべきである。
『諸菩薩よ、願わくは哀愍したまうが故に、
我を摂受したまえ。
今よりのち、乃至、成仏に至るまでに、
我は常に身を捨てて一切如来、および諸菩薩を供養し奉る。
ただ願わくは、慈悲をもって悲愍加護したまえ」と。
世界の真実は諸行無常です。
始まりあれば終わりがある
自殺しなくても、
いつかは死にます
人はみなゆっくり自殺しているようなものです。
まじめに精進していれば、
健康と長寿としあわせが得られるのに、
お酒を飲んだり、
不自然なものを食べ散らかしたり、
夜遊び夜更かし不規則な生活をしたり、
不平不満をもって良くないストレスをためたり、
と、自らの心身を弱め、
寿命を縮めています。
ですから、自殺しても、
その死は事故死病死などと同じです。
自殺だから地獄に堕ちる、
成仏しない、
などということはありません。
みな、同じ死です。
ものすごく稀な縁で、
せっかくゲットした心身ですから、
ゆっくり生きましょう。
すべての存在は、
生きているだけで、
他人に安心を与えます。
密教は、今すぐにこの身体のままで悟れる、
という立場です。
この肉体があるからこそ、
修行して悟ることができる。
この肉体があるからこそ、
優しい言葉をかけ、誰かに手を差し伸べることができる。
僕らは生きていれば、人を救える。
そうして、慈愛の言葉と行動があれば、
自分自身が安らかになり、
心が解放されます。
これは現世においてのみです。
世の中に変わらないものはありません。
だから、不滅の霊魂などというものも無い。
同じものはなく、
すべては変化しています。
避けがたいものを受け入れる智慧が得られた状態を悟りと言いますが、
それには自ら考えて判断することが重要で、
死んでも嫌なものから解放されるとは言えない。
そもそも、苦しみの無い世界があるわけではなく、
それは自分で作っているものです。
苦しみは「思う通りにならない」という執着のことですが、
これから逃れる方法は、死ではなく「目覚め」です。
目が覚めたことをブッダ、悟りと言います。
お釈迦さまは亡くなる直前、
弟子たちに、
怠りなく修行するように、
目を覚ましているように、
とおっしゃいました。
陰陽で見ると
誕生が最も陽性で死が一番陰性。
死にたいと思うのは陽性過多、
と考えられます。
心の扉を開けて、
清々しく生きましょう。


コメント