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死に際のわがまま

仏教と密教

ある人が、
よくガン封じの寺とか、ボケ封じの寺、
なんていうのがあるけれど、
アンタの所もそういうのにすれば。

というので、いろいろ考えています。

ぽっくり死にたいのなら、
コレステロールばっちりのものばかり食べて運動しなければ、
心筋梗塞でうまく行くかもしれない。
でも、うまくいかない場合は、
暴れたりするようになるだろうなあ。

東北北陸には、ほんの100年ほど前まで、
食事を断ち、漆やニカワを飲んで身体を硬化させ、
坐禅したままで往生する人が、少なからずいました。

ほとんどはお坊さんだけれど、
世界の平和のために自らの食を断ち、
衆生の安穏を祈りながら亡くなりました。

みんな、お大師さんに憧れているから、
同じ60歳くらいでそういうことをして、
僧名には「海」という文字を使っています。

南紀の海の向こうには、
補陀落ほだらくという観音さまの浄土があり、
ある年齢になった僧侶は、
帰れない船で渡海したと言います。
これも身を捨てて衆生済度を願う行、
とされていた。
『補陀落渡海記』井上靖に、
その風景が書かれています。

昭和36年6月3日午前1時、
臨済の山本玄峰老師は、危篤の床から、
「旅に出る。着物を用意しろ」
と最後の言葉を残して遷化します。

老師はほぼ盲目でしたが、
大病で瀕死の老人の枕元で、
「あんたも今度はなかなかの大病のようじゃが、
 まあコットリ死ねよ」
と言ったら、
そのお婆さんは胸の中がスーッとして元気になった、
と言うような逸話を持つ人です。
(『遺偈・遺誡 : 迷いを超えた名僧最期のことば』大法輪閣)

象や野良猫のように、
人知れずいなくなって、
そういえばあの人最近見ないねえ、
なんて言われて、
実は3年前に死んだんですよ。
そんなのがいいなあ、
なんて思っていたら、
最近は別な理由でそういう人が少なくないようで、
まあ、困ったものだなあ。

人間はいつ死ぬか分らないよね、あした死んじゃうかもしれないんだよね。
と幼い子が言う。

そうだよ。

じゃあ、死ぬ前に何がしたい?

お父さんは今やることをやるよ。
そうでないと、格好悪いからね。

ふーん、
じゃあ、オレは友達と遊んでくる。
もう会えないかもしれないからね。

人生何でも修行である、ということにしておけば、
いつどこでどんな死にかたをしても、
修行中に死んだのだから本望であり、
ありがたい、のだろうか。

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