覚っている人は、
微笑んでいます。
如来や菩薩。
優しさで救うのかな。
だから、
微笑めば覚れる。
でも、
お不動さんは違う。
しかりつけて救う。
強烈に救わなくてはいけない人向け。
だけど、
怒っても覚れない。
自分の無い怒りで救うらしい。
大日経には、
最高のさとりはどのようなものか、
という問いに対し、
「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす」
(さとりを求める心を因とし、
人々を苦しみから救う大きな慈悲を根とし、
実践を目標とする)
と書かれています。
例えば、
大日如来がお不動さんに変身して衆生を救う、
おなたに変身して私を救う、
という方便があります。
で、さとりとは、
如実知自心(ありのままの自分の心を知ること)
そのために真言を唱える。
修行には、
念誦行と護摩行がありますので。
真言は呪文と似ていますがちょっと違う。
仏のさとりの言葉。
あらゆる思惟を含みます。
だから、真言を唱えながら拝む。
唱えているうちに行者は真言そのものになる。
自心になる。
M78星雲からウルトラの使者として、
悪と戦い、すべての衆生を救うウルトラマンも同じ。
真言は「ジュワッ」
ところで、源氏物語(常夏)には、
「さりとて、窮屈になって行者のように不動のダラニを読んで、
しゃちほこばっているのも困りものだなあ」
『秘蔵記』67に、
「これ五種の念誦 いわゆる蓮華念誦、金剛念誦、三摩地念誦、声生念誦、光明念誦なり。
蓮華とは誦する音自の耳に聞ゆ。
金剛とはいわく脣歯を合して少しく舌端を動す。
三摩地とはすべて舌を動ぜず、心において念誦す。
みなこれ心蓮華の上に月輪を敷いて、
月輪の上に明了に阿字を観ぜよ。
観と念誦と相応して差違せず。
(声)生とは心蓮華の上に、商佉を安ず。(白貝)。
商佉より妙音声を出ず。
例えば鈴を振るがごとし。
光明念誦とは、
口より光明を出すと念想して持誦するのみ。
それ声を出すにも出さざるにも、
常にこの念をなせのみ。
96に
本不生際(さとり、ありのまま、しんにょ)というは、
心は虚空のごとくにして不生不滅なり。
この本不生は不可得なり。阿卑羅吽欠なり
66に
「五字の観において不可得を観ずるその意いかん。これは遣迷の義なり。
至極の義にはあらず。
円明を観ずるこれ至極の義なり」
無分別
凡聖不二


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