腕に止まった蚊を、
払うのと、叩いて死なせるのとでは、
業が違ってくる、
という使いかたをします。
業は、サンスクリット語のカルマ(karman)で、
本来は、単純に行為・actionのこと。
自分のおこないにはむくいが伴う、
とされます。
自分が何かを思えば、
必ず自分の中に報い・結果が訪れる。
自分の行いの結果が、
ある思いになって現れた、
と考えます。
その時、
特定の不安、苦痛、悲しみを怖れているなら、
それに対して自分で何かできることが、あるかどうか、
よく考えます。
できることがあるなら、怖れる必要は無く、
できないなら、心配しても無意味です。
修行しないのなら悟れない、
その時は、修行するか諦める。
勉強しないからわからない、
その時は、勉強するか、
それまでの人間と判断する。
酒でダメになるなら、
やめるか、それまでの人間か。
よくよく考えてみます。