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無と空

仏教と密教

無は、
何も存在しないこと
もしくは、
無が存在すること。

無は有の反対、
と考えた場合、
そこには有と無の対立があり、
迷いが生じる可能性があります。

無は非有ではなく、
有無どちらもない、
その境目がない、
大空の中に雲と太陽があるように、
有も無も一緒に含まれて全体。

有と無の分別(錯覚)があるとしても、
主観(見るもの)と客観(見られるもの)は無い。
有るでもなし、無いでもないから「中道」

ガスタンクの中にガスが有る、
ガスを抜くとガスが無くなる、
ガスタンクの中には新たな有(例えば真空という状態)が有る。
つまり、否定した先に、
肯定的な何かが現れる、
などの考えかたもあります。

『この世の人々は、多くは二つの立場に依拠している。
 即ち、有と無とである。
 もしも人が正しい知恵を得、世間の出現を如実に観ずるならば、
 世間において無はあり得ない。
 又、人が正しい知恵をもって世間の消滅を如実に観ずるならば、
 世間に有はあり得ない。
 (あらゆるものはあると)いうならば、これは一つの極端説である。
 (あらゆるものはない)というならば、これも第二の極端説である。
 人格を完成した仏陀は、
 この両極端に近づかないで中道によって法を説くのである』
                   『阿含経』(カートヤーヤナへの教え)

この中道が空です。

空は
サンスクリットの形容詞 シューニャ(śūnya)、
名詞形はシューニャター(Śūnyatā)の訳。
梵和辞典には、
・śūnya;
からの、空虚な、住む者のない、すてられた 乗り手のない馬
うつろな凝視
呆然とした
取り乱した
貧困な

・śūnyatā;
空虚 孤独 後輩 放心 乱心
空、無、空性、空相、虚空

『日英佛教語辞典』には、
・空;
void,emptiness
the opposite of u(有)’existence’

とあります。

あらゆるものは幻、こだま、陽炎のように、
実体はなく、消え去るもの。
永遠常恒孤立的なものはない。

すべては生じては滅する。
生じては滅するものに実体は無い。
実体とは、
永遠で独立して(そのものだけで存在できる)常一で主宰者であるもの。

などと空を説明します。

空は無我と同じで、
実体が無いこと。
全ては変化して縁と条件によって存在しています。
その結果がまた原因となって縁と条件によって変化する。
だから、永遠不滅なものはない
自分だけの力で孤立的に存在しているものはない。
心も同じ。
「私」も同じ
どこにもその実体は無いけれど、縁と条件によって仮にある。
仮にあれば便利だから。
「私」がないのだから、
「私のもの」も「私の心」も実体は無い。

加藤精神博士は、『佛教哲理の發達』の中で、
「五指があつまって拳骨になる
 五指を開けば拳骨はなくなる
 だから、拳骨は空である」

「因縁によって生じたものは無自性であるから空である」

「家がある。柱や壁によって家になる。
 永久不滅の家はない。
 因縁によって生じただけで無自性である」

「珠が集まって糸を通して数珠になる
 永久不滅の数珠ではない。
 ちょっと糸が切れればばらばらになる」

などと書いています。

無自性とはそれ自体の自性が無い、
ということで空のこと。

無は無いという存在ですから、
1✕無=1

空は零ですから、
1✕空=空

と考えるものおもしろい。

0ということは、
我々の知覚や思想の対象になるものは実際の有でない。
という立場です。

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