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仏教マニアの終活

仏教と密教

2000年の今頃、
ある行者さんが我が家を訪ねてくれました。
彼の修行体験を聞いて、楽しかった。
それまで、疑問に感じていたことが、
ああ、そういうことなのか、と氷解し、納得がいく。
すっきりして、心満ち足りました。

あれから20年、
その間にまた、
僕は、わからないことばかりになっているけれど、
それを聞く人に、なかなか出会わない。
互いの宗教体験を話し合う人にも出会わない。

人生も後半になって、
そういう人に会うことが死ぬまでの目標。
残りの人生、真理を体験したい、即身成仏を垣間見たい。
それができないのなら、生きている意味はない。

『修行千二百日』で著者の市川さんが、
3人の先生に話を聞く場面があります。
悟りの完成、悟った状態の時
いったい自分はどうなるのか、
を熱心に聞きます。
その聞きたい気持ちは痛いほどわかります

ところで、
即身成仏は可能か、
そもそも意味のあるものか、
いろいろな意見があります。

津田真一博士は

「私は、現代社会に生きる自分、
 という視点において即身成仏を真言宗の理想とは考えないのである。
 他者の存在に無関心であり、社会性も倫理性も無く、
 他人に対する慈悲も、それにもとずく働きかけもなく、
 唯一人絶対者に向かい合うヨーガ的精神性そのものである即身成仏は、
 今日はもちろんのこと、弘法大師の時代においてすら、
 日本真言宗の理想であった筈はないのである。
 私は即身成仏を口にする学者や密教家の神経と頭脳を疑わざるを得ないのである」
 (『仏教経典散策』(金剛頂経))
と書いています。

確かに金剛頂経における成仏にヒューマニズムは感じられない、
慈愛とは全く関わらない悟りの世界、とも見えます。

でも、金剛頂経に説かれる五相成身観は
お釈迦さまの悟りを追体験するものであり、
お釈迦さまみたいな人になる方法のひとつ。

成仏することで、
「医王の目には、途に触れて、皆薬なり。
 解宝の人は、礦石を宝と見る」
とお大師さんが言うように、
常に歓喜、浄福、自在、光明、敬虔の中に住したい。

そのために、
「男女もしよく一字を持せば朝朝もっぱら自心の宮を観ぜよ」
 (性霊集喜雨歌)
「三時に上堂して本尊の三昧を観じ、五相入観して無上悉地を証すべし」
 (高雄山寺に三綱を択び任ずるの書)

そして、

「大日の光明廓として法界にあまねく、
 無明の障者たちまちに心海に帰せん。
 無明忽ち明となり、毒薬たちまちに薬となる。
 五部三部の尊、森羅としてまどかに現じ、
 刹塵海滴の仏忽然として湧出せん」(『三昧耶戒序』)

といいう世界に遊びたい。

田中千秋先生は
「大日に触れた瞬間、人間は一転し、
 三密瑜伽によって宇宙大の一心が円現し、
 行者の苦悩はここにおさまる」(「三昧耶戒序の理解」)
そして、
「実は如法なる時もしかざる時も、
 行人は常に如来の手の中にあったし、
 現に手の中にあるのである」(「真言宗における証」)
と書いているので、そんなに焦ってはいない。

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