有相の行を捨てて、
六大無相を観想します。
空観であり、無分別観。
心月輪に五字を置く場合。
自身の五か所に五字を布す場合。
いづれにしても、
自身内の五大と
法界の五大は無二無別なので、
自身即法界。
一切衆生乃至非情草木も同じ。
中川先生は、
『諸尊通用次第撮要』の中で、
「無点五大本有の観法、
有点五大修生の観法は、
表徳・遮情の両般を尽し、
大師の教の全教義の結果、
菩提を成ずる信念の総和ともなり、
具さに観の到るに
生涯をかけてこれに対せねばならん」
と書かれています。
これを読んで、
つらいことがあっても、
乗り越えられるようになりました。
基本的には、
a字諸法本不生不可得
va字言説不可得
ra字塵垢不可得
ha字因業不可得
kha字等空不可得ですが、
密教では、不可得に
「超越する」
という意味が含まれている、
と考えています。
最終的には、
字相字義を離れて無分別観に入ります。
『秘蔵記』66には、
「五字の観において不可得を観ずる、
その意如何。
これは遣迷の義なり、至極の義には非ず。
円明を観ずる、これ至極の義なり」
また
『大日経疏』第二十には、
「出世間といっぱ、当に知るべし、
この意念誦の法は、文字を離れるなり。
豈前来の真言の字等を撥離するを、
まさに文字を離れると名づけんや。
かくの如くにあらざるなり。
いわく能く字の本性は則ちこれ円明なりと達し、
当に本来不生に住すべきもの即ち心これなり。
心の体性円明清浄に、
衆徳を具足して分別なし。
まさにかくのごときの字を観ずべきなり」
『不動法』には、
「この観に住しおわって字義を失し、
言亡慮絶してやや久しうして定を出よ」
『秘記』には、
「字相を忘れ
字義を忘れ
観心疲極し言亡慮絶して、
ただ心月輪のみあって潔白分明なり
是れ無分別観と名づく」
『桧尾口決』には、
「観法の時は別に義理を思惟せず、
ただその形色のみを
法の如く歴然として観ずるばかりなり」
『秘蔵記』18浄菩提心観には、
「以後に月輪を法界に周遍せしめて、
にわかにすべからく身と月輪とを忘れて、
専ら無分別智に住すべし』
『無相観頌』に
「初観の時には月に似たれども、
周遍の後には更に方円なし」
などとあります。
観ると観られる
知ると知られる
生むと生まれる
など、
主体と客体の区別を超越し、
対象を分析的にではなく
直観的に把握するトレーニングです。
その時の印象を
さとりと云います。
主体は心
客体はモノ
どちらも空であり
本来不生不滅。