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自己の秘密を告知するドラマ 2

仏教と密教

獣が鳴き、吠える時、
考えてからそうしているのでしょうか。
人間は思ったこと感じたことを、
一度考えてから、話します。

多くの欲望も、
一度思惟してから、生きる智慧として排出されるべきです。

しかし、
覚りの智慧がない欲望は、
それにともなう行いと言葉と思いを生み、
それが脳に働いて心と身体が反応し、
五感がそれをとらえ、
その時に、
苦・楽・不苦不楽が生まれ、
渇愛が生まれます。
渇愛は強い執着となり、
生存を支配し、
苦悩の代表である老いと死を迎えます。

その欲を制御すれば、苦から解脱できるわけではありません。
苦は思い通りにならないことで、
楽は思い通りになる。

思い通りになりたいと思えば、対岸には苦がいつも寄り添います。
苦楽は常に一緒です。

そのどちらからも離れるのが勇者の悟りでした。

どちらもあり、
どちらもない、
どちらでもいい、
そもそも何が違うのか。
二辺に分ける生きかたから勇者は離れます。
なぜなら、どれもがみな、世尊からのサインだからです。

これを法身説法と云い、勇者の得た悟りの最大の特徴です。

真理(事実)と愚かさの迷い(うわさ話)の区別が無くなる時、
人間は再び苦の中に入り込みます。
それを救ういくつかの教えがあります。

太陽のように、明るさと温かさといのちの成長を与えてくれる教えは、
優しさと思いやりを重要視します。

その修行内容は、
勇者の行い、言葉、思いを、
世尊の行い、言葉、思いにシンボライズします。
シンボルはシンボル化するものと同じである、という瑜伽の修行により、
勇者は世尊と同一になります。
そして、
他に対する優しさと思いやりの行いを続けること
(これは、実の如く自心を知るためのプロセス)
によって、同一化を維持します。
優しさと思いやりの修行しているかぎり、
勇者は目の前に苦しんでいる人を救います。

ダイヤモンドのように固く壊れない、
永遠の智慧の教えでは、
太陽の教えのような、自心を知るプロセスを、
ある真言を誦するというシンボリズムで代替します。
その真言を好きな回数だけ唱え、
その真言が意味する世界を観想することで、
真理に到達します。
その内容とは、
一切の世界があるがごとくに、そのように我はあり。

これが世尊の「天地にゆきわたる、ありのままの智慧」です。

永遠の智慧の教えでは、
勇者が世尊と似ているならば、勇者は世尊と同一である、
と考えます。
そうなるように、似るように、生きるのです。
その時勇者は、世尊という個ではなく、
宇宙法界と瑜伽します。

これらは、欲望を制御できない人でも可能な修行方法です。

人間は常に困難な状況に置かれます。
それによって、強度が高まり、
さまざまな修行によって困難を克服する時、
その代償として、尊厳と安心を得、
そして、勇者になります。

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  1. つぼい ゆうこ より:

    優しさと思いやりの修行しているかぎり、
    勇者は目の前に苦しんでいる人を救います。

    とありますが、
    どうしてそれで救えるのですか?

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