入我我入観は、
有相の凡聖不二観、三平等観。
『秘蔵記』22に、
「先ず本尊を観じて壇上に安置せよ
次に吾が身は即ち印
語は即ち真言
心は即ち本尊なりと観ずべし
是の三密平等平等にして法界に遍ぜり
是を自の三平等と名づく
吾が三平等と本尊の三平等と同一縁相なり
是を他三平等と名づく
ただ本尊と吾が三平等と同一縁相なるのみに非ず
已成未成の一切諸仏の三平等も亦同一縁相なり
これを共三平等と名づく
同一縁相の故に
真言印契等しきが故に、
諸仏を吾が身中に引入す
是れを入我という
吾が身を諸仏の中に引入す
是れを我入という。
入我々入の故に、
諸仏の三無数劫の中に修集するところの功徳
吾が身に具足しぬ 云々」
とあります。
本尊は自心、壇上は心内。
また、
『秘蔵記』19には、
「先づ五大を身中に観ずること五字厳身のごとし
いわゆるわれは遍法界の身なり、
諸仏も遍法界の身なり
~中略~
本尊の三密の鏡の明かなること
大円鏡智の一切の色相を照らすがごとし。
本尊と我と無二無別なり
わが三密の鏡の明かなること本尊の三密の鏡のごとし。
已成未成の諸仏とわれと無二無別なり
已成未成の諸仏の三密の鏡の明かなること
わが三密の鏡のごとし
諸仏は万徳円満にして眷属囲饒せり。
われもまた万徳円満して眷属囲饒せり
諸仏は遍法界の身なれば、
わが身諸仏の身中に在り
わが身遍法界の身なれば、
諸仏の身わが身中に在り、
たとえば因陀羅網のごとし」
『蓮華部心念誦儀軌』には、
「観想せよ
本尊我が身に入りたまふ
我れ亦本尊の御身中に入る
譬えば多くの明鏡相対して
互いに影現渉入するがごとし」
このあたりの風景、印象は、
五大六大が溶け合っており、
煙が大空に混ざり、
塩人形が海に溶け、
ミルクとコーヒーが混ざり合う。
そういう感じ。
光(智慧)のない闇(無知)の状態だった心に、
ブッダの光が当たり、
闇が光になります。