心はモノで表現されます。
心とは、
「私はそれを知る」
ということ。
仏教では、
自心を知ることを「覚る」
と云います。
『大日経』具縁品には、
「我、本不生を覚り、
語言の道を出過し、
諸過解脱することを得、
因縁を遠離せり、
空は虚空に等しと知る」
とあります。
存在や心の本体が、
不生であること(時間の無い在りかた)
だから、
言語による分別を超えていること
けがれが無いこと、
原因と条件にとらわれないこと、
虚空のようにさまたげなく自由であること
を「私は覚った」
『即身成仏義』には、
「我覚とは、識大(一切智々:心)なり。
迷いの側からみて識でと云い、
覚りの側から見れば智と云う」
とあります。
密教では、
モノは単なる物質ではなく、
如来の三昧耶身(いのちのあらわれ)、
つまり、
宇宙法界にひろがり存在するいのちを示したもの
と考えています。
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