「私」への執着と、「もの」への執着を両方断じる。
そうすれば、
自分の悟りと、他を救うことが同時に達成される、
と考える立場があります。
『真言宗読本』教義編に、
「人は周囲と無関係に存在するものではない、
呼吸一つとって考えても分る。
人は植物の放出する酸素に生かされ、
逆に人のはき出すものを植物はすいとっている。
我れというのは百六、七十センチのこの身と思いがちであるが、
実は我はもっと大きい、自身は宇宙につながり、
天地一切がこの身に集約されている」
とあり、
田中先生は、
「これを要するに、
大きく広く深い本来の自心
あるいは一心に常に住することが大覚であり、
それが行人の修道目標である」
と云っています。(『三昧耶戒序の理解』)
鳥には羽があり、
花には香があり
地球に海があるように、
衆生には仏性があるのだから、
慈悲も悟りも本能的なもの、
もとから具わっているもの。
それを、
三摩地という精神統一、心を静かにまとめる法、最高の落ち着きによって、
体得します。
具体的には、
月輪観や五相成身観などの三密行、真言念誦。
迷い煩悩を気にしないで、その向こうに光明を見る方法、
雲を気にせず、月に坐るイメージ。
『菩提心論』に引用された『大日経供養次第法』に、
「もし勢力の広く増益するなくんば、
法に住して但し菩提心を観ずべし。
仏、この中に万行を具して浄白純浄の法を満足すと説きたまふ」
とあります。
栂尾先生の訳では、
「もし真言行者にして、
財施等の勢力をもつて、
広く有情を助けることができないならば、
ただ一心に月輪観等の法に住して、
ひたすらに菩提心を観ずるがよい」
三摩地(心の観察・瞑想の実践)は、
慈悲と智慧の土台、根っこ。
ここがしっかりしていれば大丈夫。
もし、
仏の智慧を求めるなら、
念誦や呼吸法や観想によって、
自分の心をよくよく観察します。
これが基本。