儀式で唱えるものに、
お経に節がついた声明があります。
唱えかたに梵語と漢語があり、
比較的ポピュラーな仏讃を見ると、
漢語では、
大悲護世尊
導師備衆芸
無辺功徳海
我今頭面礼
梵語では、
mahākāruṇikaṃ
śāstāraṃ sarva-vedinaṃ
puṇya-dadyaṃ guṇa-dharaṃ
praṇamāmi tathāgataṃ
どちらも意味は同じ。
大慈悲のあるもの(十一面観音の真言と同じ)
保護してくれるもの
総てを知る師として、
はてしなく海の如き功徳を有するものに
礼拝します。
讃える仏とは、そういうお方なのですが、
『入諸仏境界智光明荘厳経』の仏讃には、もう少し詳しく説かれています。
この法問によりてまた次の如く彼の無生無滅
と名つくるものは如来の同義語なりと知るべし。
その時、世尊が次の如き等の偶を宣へり。
如来とは常に無生の法にして一切法は善逝と等し
愚童の恵解あるものにして相を執するもの等は世間等
に於て無の法を喜ぶ。
如来とは無漏にして善の法の影像なり、
されば、ここに真如なく如来もまたなし一切世間に於て影像の如く
普ねく顕現す。
仏とは、生じることも滅することもなく、固定的なものでなく、
愚かさの迷いから離れて、善が映し出されたもの。
姿形が必要な者には、すべてのものは幻の如く、はかないものであることを示し、
五感の認識を超越しており、それは自性清浄心のこと。
仏=万物が本来的に生じることも滅することもないと分かれば、
それは、 言語表現を超越していること
罪過を解脱していること
原因と条件とに束縛されないこと
そして、
遮るものなくすべてを包み込む大空に等しいと知ります。