仮説(けせつ)は、
仮に言葉で説く、ということ。
言葉を使うと、
その言葉に限定されてしまうので、
うまく伝わらないことはよくあります。
とりあえず、ことばで言えば、こういうこと、という感じかな。
例えば『般若心経』に、
「色即是空(色は則ち是れ空なり)」
全てのものは自性(常住不変唯一で、他と関係なく独立的に存在すること)
が無く空である。
「是諸法空相 不生不滅 不垢不浄・・・。
(是の諸法の空相は不生にして不滅、不垢にして不浄・・・。
すべてのものは始まりも終わりもなく、汚れもなく清らかでもない
『理趣経』には、
「一切法清浄」
この世のすべての存在も行為も、その本性が清浄である
清浄とは自他の仕切りがないこと。
『一切有情如来蔵」
この世のすべてのいのちあるものは、
如来蔵となる可能性を生まれながらに宿している
本当にそうだろうか。
これらは事実だろうか。
現実にいる自分、目の前にいる大切な人、
それは実体が無い、始まりも終わりもない、
清浄で如来を蔵している、
これらは事実だろうか。
経典には、
仏の世界からみた事実が書かれています。
だから、仏の世界にいない人には理解できない。
仮説でしかない。
それを実証すれば事実となります。
誰でもいつでもどこでも、それを証明できれば。
仏教では、これを体験しようとします。
瑜伽行(瞑想修行)によって個人的に体験する。
科学は分析知ですが、仏教は直観知です。
修行によって空、清浄、如来蔵を体験する。
そうして自己の身体の中に証得します。
そのために拝みます。