そのためには、
正しく見る、正しく聞く。
見る聞くなどの感覚で心が生じます。
迷い苦しみ怖れ愚痴煩悩ストレスは、
人と会うことで生じます。
だから、
誰とも会わずひとり静かに拝んでいればいいかというと、
そうでもない。
人と交流しなければならない社会で、
ありのままであるには、
自他の境をなくす、
というイメージが役に立ちます。
密教瞑想は、
仏(聖)と自分(凡)が不二
自分と自分以外が無分別
世界は、
自分と自分以外であり、
自分は思いようでどうにでもなり、
自分以外の現象は真実、仏のいのちのあらわれ。
自分以外は仏、仏のシンボル、仏の化身
自分というものは、どこにもない。
そうすると、
自分と自分以外の境は、思っているだけですから、
無くてもいい。
そうすれば無差別無分別平等
無限で広々、汚れていないから清らか
法界体性
自分と自分以外が別々ではない
どこにも区別がないという世界
ただ、円明、光明。
文字や説明を思わない。
OFUSEで応援を送る
コメント