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欲が清浄な理由

仏教と密教

『理趣経』は、
「説 一切法淸淨句門 所謂」と始まります。
あらゆるものは清浄である、と。

『理趣釈」には、
「一切法の清浄句門を説きたもう」とは、
もし瑜伽行を修するものは、生死流転において不染の故に、
広く有情を利楽することをなすが故に
速やかに無量の三摩地、解脱智慧を証するが故に
速やかに広大なる福徳の資糧を集むるが故に
一切のマーラ、ヴィナーヤカ衆を超越す。
速疾に世出世間の勝願の満足を得るが故に、如来の大悲を説く。
最上乗の種性を愍念するものは、十七種の清浄の瑜伽三摩地を説く。
この故に
諸の契経は三界唯心を説き、心の清浄によって有情は清浄、心の雑染によって有情は雑染なり。
また、有情界はこれ菩薩の浄妙の仏国土なりと説く。
十七清浄句門を修得することによるが、これなり。

とあります。

瞑想修行を実践するものは、迷いの世界に染まらないから、
他を利益し、安楽にする。
それによって、はかり知れない瞑想とさとりの智慧を得るから、
あらゆる悪を超越する➡汚れを越える➡清浄である。
さまざまな経典は、この全世界は、ただ心の現れに過ぎないこと(三界唯心)を説き、
心の清らかさによって、生きとし生けるものは清らかとなり、
心の汚染によって、生きとし生けるものは汚れに染まる。
また、生けるものの世界は菩薩の清らかで妙なる仏国土であると説く。

清浄とは、
瞑想法によって一瞬の清らかな心が相応すること。
理趣経にある瞑想法により、
存在の究極のすがた(本来清浄)をさとり、
大いなるあわれみを捨てず、さとりを得ます。

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