汽車の音を聞いて、
それを汽車の音、と判断するのは、
どういうことでしょうか。
『声字義』には、
「如来の説法は、見えるものによって見えないものを
形あるものによって形なきものを、というように、
必ず何らかの意味を外に表現する、広い意味の文字によられている
その文字は音声の屈曲による文(あや)としてのものもあれば、
眼に見える形としてのものもあり、
匂いの上の文、味の上の文、というように、実にいろいろさまざまである。
したがって、その文字のあるところは、
見るもの、聞くもの、匂うもの、味うもの等の六塵の世界がその主体となっている」
六塵は、
眼、耳、鼻、舌、身、意が感じる対象で、
色、声、香、味、触、法の六つ。
音が聞こえるのは耳からの声塵、
それが汽車の音、と判断するのが意からの法塵。
この六塵の本質は、三世を貫く法身仏の三密
つまり、真理の行いと言葉と想い。
その行い、言葉、想いは平等で、
宇宙に遍満しています。
悟り、真理、仏、清浄心は、
どこにでもゆきわたって、地獄でも極楽でも、これを欠くものではない。
これを悟るものが大覚、これに迷うものを衆生という、
とあります。
僕らが毎日見たり聞いたりする刺激、
その見たり聞いたりする相手、
それが真理である、仏である、あるがままの本体である、
ということ。
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