生きるとは何か、
何のために生きているのか、
今、僕はここにいる必要があるのか、
僕でなくてもいいのではないか、
僕が僕である意味は何か。
もし、心の内にある叫びに目覚めた時、
仏教には、それを解決する方法がたくさんあります。
『金剛頂経』に説かれるのは、
自心の源底に宿る真実(大日如来という名のイメージ)を実の如く知り、
その働きを実現するための、各種瞑想トレーニング。
自分の心の中をよく観察すると、
そこに、本来の菩提心があります。
深い海溝を探索すると、
太古から続くいのちの痕跡が見つかるように。
たいしたことは無い、と思われる自分の心も、
その根底にあるものは、
泥の田から生えて、その泥に染まらない蓮華のようであり、
常に清浄で本来の智慧の光を放っています。
ほら、ちょっと心の中を覗くと、小さな光があるでしょう。
それは満月の清涼な輝きの如く、悟りの本体。
自動車で云えば、充分に整備され安全を保障されたエンジン。
悟りの本体である菩提心に通達すべし、
という内容の真言を唱えながら、それを象徴する月輪を観想します。
エンジンを信用して、発動します。
『略出念誦経』には、
堅牢の故に自心の月輪中に於いて金剛の形像を想へ
純真金色にして具に光焔を放つ
即ち是無垢清浄の仏智なり
とあります。
『金剛頂経』では、
僕らの肉体も菩提心のひとつの表現、と考えます。
真実真如悟りといったものが、変化して自分の肉身になっている、
だから、真実や悟りと自分は、別なものではない、
というのが密教の立場です。
大空や大地や大海原にある、
動き、音声、はからいが、
みな、自分の中に入り一体となる、
聞こえている鳥の声は、
仏の説法として自心の声となる、
そのように、
世界中の身・口・意を、自分の身の上に実現する、
そういうふうに考えて、
そういうようになりたいとおもって拝みます。
誰もが本来仏であり、
全ては真実の顕現であるなら、
迷妄など、どこにもあるはずありません。
しかし、
迷妄が無ければ明悟もない、
そこの差別を乗り越えます。