日々迷い苦しみを自分で作り、
その解決法も自分で考える。
最初から、迷わなければ良いのに、
そうはいかないのは、
心が自由で放し飼いにされているから。
病気を自分で作り、
その治しかたも自分で作るようなもの。
そこに苦楽があります。
それはさておき、
見える心(臓)を蓮華の形に観想して、
その背後にある見えない心を想います。
蓮華が泥に染まらないように、
僕らの心も、
迷いの垢にそまらないから。
その心には仏性があり、
本来仏であるのだから、
実際にある心(臓)を観じれば、仏身が見えます。
そこに菩提心があります。
その菩提心は、
「満月の円明なる当体が全く菩提心のそれに類似する」
(『菩提心論』)
とあるように、満月のようなもの。
さらに、
『金剛頂経』では、
自分が本性において、
仏の五智を象徴する金剛杵と同じであることを、
体験します。
五智=大日=金剛杵
自分はそれのようなもの、
ということ。
そして、
それは私のようなもの。
そうしてわかるのは、
宇宙があるように、
月があるように、
蓮華が咲くように、
金剛杵が固いように
あなたがいるように、
大日如来があるように、
私がいます。