人はみな本来仏である、
というのは、
これから努力して仏に成るのではなく、
もうすでに完成している、
という立場です。
しかしまあ、
果たしてそうだろうか、
と思わないでもないけれど、
自他はまったく未完成である、
と執着することは、誰のためにもならない。
悟り、人格の完成を遠いもの、
と思うのは煩悩です。
仏性がある、如来蔵である、
本来仏である、
そういうことの信をゆるぎないものにする、
それを本覚と云います。
もちろん、
仏教について、心について、自分について、
よく勉強することが大切。
押しつぶされそうな悲しみや寂しさ、
絶望と喪失感、
そういう時に、
それからの可能性を信じるかどうか、
ブッダの性質もこの身の中にあることを、
信じるかどうか、
どう思うか、で変わります。