全ての存在に仏性がある、
如来蔵である、というのは、
全ての人は、
人格の完成と、
しあわせになる可能性をもっている、
ということ。
いくつか引きます。
「六道四生の一切有情はみな如来蔵を具す」
(慈無量観)
「一切有情は如来蔵なり」
(理趣経第十二段)
「一切衆生の身中にみな仏性あり、如来蔵を具せり。
一切衆生は無上菩提の法器にあらざることなし」
(『十住心論』第八)
「それ有形有識(非情と有情、すべての存在)は必ず仏性を具す
仏性(衆生の中にあるもの)、法性(非衆生のなかにあるもの)
は法界に遍じて不二なり」
(性霊集第九)
「卒塔婆は鑁の一字の所成なり。
またあびらうんけんの五字の所成なり。
一一を取るに任せて、
自性清浄心とも、真如とも、仏性とも、如来蔵とも、法性とも観ずべし」
(秘蔵記29)
仏性(真理・大日如来)は、
迷者の前には現れないから如来蔵というのだけれど、
とにかくみんな蔵している、具している。
世界のすべてが真理(大日如来)の三昧耶身(顕現)であり、
全ては悟りの姿(曼荼羅)であり、
何でもカンでも全部、法身です。
なので、
私は、いかなる差別にも反対します。