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瞑想と念誦の心得

仏教と密教

勉強は頭で、
拝むという実践は身体で受け止めます。

密教の拝みかたには、
心の統一法である瞑想と、
聖俗の循環法である真言念誦があります。

拝む時以外に勉強したことは、
その時に脳内にしみこませます。
そして、
瞑想時は、ただ拝む。

「観法の時は別に義理を思惟せず、
 ただその形色のみを法の如く歴然として観ずるばかりなり」
(桧尾口決)

「五字の観 不可得を観ずる・・・
 円明を観ずるこれ至極の義なり」
(秘蔵記66)

「観習成就する時は延促をもちいずして、
 ただ明朗のみを見る」
(無相観)

そして、
仏前や道場で拝むのに慣れたら、
普段の生活で、
楽しい時苦しい時、
居間車内外出入浴トイレ寝室、
どこでも、いつでも
瞑想対象を忘れないようにします。
修行の日常生活化。

真言念誦は、
よくよく息と文字と意味を味わいながら
唱えます。

「念珠の時、もし散心あらば、出入の息を観じて一法界となして、
 我が身および本尊を此の一法界に摂し、
 また一切の諸法をこの一法界に摂す。
 しかる後、念誦せよ」
(秘蔵記56)

「随分に仏の相好を観念し、
 或いは胸中に阿字を観じ或いは月輪蓮華五鈷利剣宝珠輪宝螺貝等を観じ、
 また我が誦するところの真言の一々の文字、
 我が口より出でて、虚空につらなり、
 みな金色の仏となって我を囲饒したまふ
 と観ずれば余りの悪念起こらず」
(真言開庫集第十)

「妄心の起こりたるときには、
 その妄心はいかにして起こりたるかの因縁を観じ、
 その因縁を究めるととともに、
 それはかりそめにしてさがなきものであり、
 つまりは空である、との見かたに住して、
 その妄心に追随してはならない
 妄心やむとき、心源自ずから空寂となる」
(菩提心論)

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