それは、
愚かさの迷い・もろもろの煩悩の根本。
『菩提心論』に
「無始の間隔」と説かれている微細な我。
栂尾先生の訳では
「無始よりこのかた、衆生と仏を間隔する微細の一惑あるがために
如来の一切智々を身につけることができないのである」
とあります。
僕ら凡人は、
自と他、自分と自分以外、
主観と客観の間に一線を引いています。
無始の間隔はその微細なもの。
これが自我であり、
これが貪り瞋り愚痴怠惰放逸に発展します。
田中先生は、
問題は迷い煩悩を制することではなく、
微細な我をどうするか、だとして、
「もし間隔がなかったら、
貪があってもその動きが変わり、
貪に振り回されなくなる。
これは心の欲するところに従って則を越えずという境地と一致するかもしれない。
密教は貪を捨てずして、
貪に自由を得、
貪の達人になることを教えているように思うのである」
(『真言密教の常識』)
と書いています。
まったく自由だけれど、ルールを越えない。
勉強とトレーニングによって到達する、
自分と仏と衆生が平等であり、
凡人と聖者が不二である、
という世界。