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たくさん唱えて真理を見る

仏教と密教

仏教に洛叉 (lakṣa)という言葉があります。

梵和辞典で引くと、
 賭物 標章 しるし
 狙い 目標 みせかけ
 数の名として、
 十万、百万、億

密教辞典では、
 十万の数の意。
 大日経疏17によると、それは浅略釈で、実を見るけんの意。
 本尊を観て、成就を得る成就の意。
 矢を射ると的に当たるように真理に正しく到達する意の的の義。

中川善教生は『八千枚護摩供』のなかで

「外障を除き内障を治し、
 心意を浄め勇健の菩提心に住する法として、
 洛叉念誦が教えられる。
 意念を浄め、不動の信に徹する法として念誦に過ぐるは無いのである」

那須政隆先生の「菩提心の密教的形態」では、

「印ち眞言陀羅尼の心を照見し本尊の内謹に契同するに至るを以て洛叉とする」

神代先生の「眞言行記三題」には、

「観るとは眼で観ることをいふのみでなく
 更に心に会得し了解することである。
 先づ御姿を観るのは眼で観るのである。
 眼で観るといつても、既に瞼に描くのは心眼に見るのであるが、
 御姿、特に三昧形を観るのは実は読むことを意味するので、
 即ちそれは心に想として会得するのである。
 十万返もしくは無数に称名念誦するといふのも、
 帰するところは了解するためである。
 諺に「読書百遍意自ら通す」といふが、
 まあさういふ意味のものであらう」

私は学生時代、
どんなに愚かでも、
百回くらい読めば、
少しはわかる、

と恩師から言われました。


多くの場合、
密教では、一洛叉十万遍、もしくは三洛叉・三十万遍を、
修道のひと区切りとしています。

もちろん、口先だけで何回唱えても意味はない。
心を清める方法として唱えます。

念誦に集中できない時はどうするか、

「心が乱れ、妄心が起きたら、
 それはどこからどのようにして起きたのか、
 それは仮初めのもので、実体はないのではないか、
 つまり空であると観て、妄心に随うべきではない」
と『菩提心論』にあります。

真言を30万回唱える。
それくらい唱えれば、
ある程度身につく。
身体に染み込む。

仏前と、生活の中と、
両方で唱えます。
つまり、いつも唱える。
いつも、心を浄める。

一日千遍唱えれば、
300日で30万。


お不動さんなら
namaḥ samanta-vajrāṇāṃ caṇḍa-mahāroṣaṇa sphoṭaya hūṃ traṭ hāṃ māṃ
すべての金剛に帰命したてまつる
諸魔を除き、降伏するために
暴悪の姿を現し、大忿怒の相を示す明王よ
煩悩を粉砕したまえ

光明真言なら
oṃ amogha vairocana mahā-mudrā maṇi-padma-jvāla pravartaya hūṃ
遍照如来に帰命したてまつる
大印あるものよ、
宝珠と蓮華と光明の徳を有するものよ、
転迷開悟せしめたまえ

大日如来は、
oṃ vajra-dhātu vaṃ
金剛界如来よ

a vīra hūṃ khaṃ
存在とは何かを証せる勇者よ

十一面なら、
oṃ mahā-kāruṇikāya svāhā
大悲を持てるものよ

そんなイメージで、
悟りの境界を見るまで、
真言に包まれるように唱えます。

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