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平等と可能性

仏教と密教

誰もが仏の本質、悟る可能性を持っているという仏性。

すべての存在は、
迷い愚かさの煩悩に覆われながらも、
それに染まらず本来清らかであるという如来蔵。

お大師さんの『性霊集』には、
蚑行きこう蝡動ぜんどう何ぞ仏性なからん」第六52
はう虫やうごめく虫にも仏性がある

第九99には、
「それ有形有識は必ず仏性を具す」
形あるもの、識あるもの  
つまり、非情と有情、
つまり、すべての存在するものに仏性がある。

第六51には、
「毛鱗角冠、蹄履ていり尾裙びくん、有情非情、動物植物、
 同じく平等の仏性を鑑みて、
 忽ちに不二の大衍を証せん」

とあります。

そして、
一切は如来蔵である
と理趣経や四無量心観に説かれています。

すべては平等で可能性がある
ということ。

仏性かと如来蔵は、
決まっていること、
と信じるしかないのですが、

よくよく自分の人生を観察してみると
いろいろお世話になり
迷惑をかけ
思いやりとやさしさに包まれ、
嫌なこともたくさんあるけれど、
まあ、反省と感謝の仏性、如来蔵。

世界全体を観ても
その存在があるのは
如来蔵、仏性のためではないか、
と考えています

僕らは先天的に仏である
悟っている
完成している。

勉強修行しないと、
隠れたままだけれどね。

仏性、如来蔵は決まっていることですが、
常住、実体ではありません。
そういう心が続いている、
生まれては消えている。

あなたが好きは、
ずっと続かない
生じて消えます。

次へ移り変わり、

また生じて消えます。
変化している中のこと。

不生不滅のこと。

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