仏性、如来蔵などの立場なら、
みな本来仏である、
もともと悟っている、
それが隠れて見えないだけ。
ブッダなる可能性を持っている。
仏陀は輪廻の苦から解脱した人、
だからすべての人は輪廻しない。
と考えられます。
あらゆるものが空ならば、
実体がないなら、
それ自体の本体がないなら、
なぜこの世界があるのか。
縁と条件によっているのでしょうね。
心の表現、つまり思うことによって、
認識活動が相互に絡み合って現象(世界)が現れる、
と考えられます。
苦しみは、それを考えなければ無いように。
田中先生の『三昧耶戒序の理解』には、
「大菩提心 は最勝の妙慧を直観し、
第十住心の智慧そのものになることである。
三密瑜伽によって宇宙大の一心が円現することである。
行者の苦闘はここにおさまる。
しかし、そこは単なる寂や息ではない。
同時に人を生かし人をふるい立たせる活動のおこるところである。
つまり寂にして照である」
おこない、言葉、おもいを仏のそれと同じにする、
溶け合うようにミックスさせる大菩提心。
そこは私と私以外などの仕切りがない、
ひとつの心。
そこに住することが仏道を修すること。
ただ、
こういうことを必要としている人は少ない。
お寺もそれを、さして必要としていない。