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空である心を探る 2

仏教と密教

心は不可得、つまり把握できない。

密教の立場は、
すべては本不生、
もろもろの存在は生じることもなく滅することもない。

本不生も不可得。

実体はない
現象はあるけれど、
生じては滅するもの、変化するもの。

『秘蔵記』96に

本不生際というは、心は虚空のごとくにして不生不滅なり。
この本不生は不可得なり。アビラウンケンなり

つまり、

すべての存在は 空(くう) であって、

固定的なものは何も得られないということ。

さらに

『秘蔵記』66

五字の観において不可得を観ずるその意いかん。

これは遣迷の義なり。至極の義にはあらず。

円明を観ずる

これ至極の義なり

五字の観とは、

アビラウンケン(地水火風空)の観想

それはまだ、迷い区別仕切りが残っています。

悟りは

差別分別なく

一面の円明。

本不生について

『吽字義』に詳しくあります。

一切の法は衆縁より生ぜざることなく、

縁より生ずる者はことごとくみな始あり本あるをもって、

今この能生の縁を観ずるに、またまた衆因縁より生ず。

展転して縁に従わば、誰をかその本とせん。

かくのごとく観察するときはすなわち本不生際を得。これ万法の本なり。

なお一切の語言を聞くときに、すなわち阿の声を聞くがごとく、

かくのごとく一切の法の生ずるを見るとき、すなわちこれ本不生際を見るなり。

もし本不生際を見るものは、

これ実のごとく自心を知るなり。実の如く自心を知るは、すなわちこれ一切智智なり



さとるとは、

ものごとの真の意義をあやまりなく知ること

ですが、

ものごとの基本は、

モノも心も本不生である、ありのままである、無限である

流れて変化している

だから執着できない。

おそらく、真実はつかまえられないでしょう。

直観するだけです。

心=仏=悟り=清浄=虚空=無限

姿なく、願いなく、円明。

実体のない心から
私たちはあらゆるものを生み出しています。

それが真実の姿。

皆不生、仮有であり、空、光明。

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