昔のブログ

密教、仏教、精進料理、望診法の

動画はこちら

仏教の思想 お尻はどこにあるのか

仏教と密教

だいたいこのへんだな、
と理解しても、
どこからどこまでがお尻なのか。

ずっと続いてひざの裏、
かかと、
足の裏も続いているからお尻である。

背中もお腹も、手も。

なので、
手をつなぐ、
お尻を触る、
は同じことである。
そこは手ではなく、
尻であるから。

お尻や手と区別してみるか、
全体がお尻である、
と覚れるか。
いやいや、
お尻なんかどこにもない。
全部皮膚である、
身体である、
と全体的にみるか。

そこはお尻ではなく、
皮膚であり、肉体である。

個別に見るか、
全体ひとつとみるか、
心も同じ。

そして、
あらゆるものは縁と条件、
原因によって成り立ちます。
例えば、
身体は何でできているのか。
元素、素粒子・・・・・。

どんどん追及していくと、
最後のひとつにたどり着くでしょう。
そのひとつは何から生まれたのか。
ひとつしかないのだから、
縁も条件も、原因も無い。

大空も、建物も、同じように、
原初が見つからない。

それを、
生じないありかた、ありのまま、
と見る。
本体が無いのだから、
生滅が無い、と。
これは感覚的、直観的です。

「自分」も「心」もそう。

そのような状態では、
執着も善悪も美醜もない。
ありのまま。

よくよく考えてみれば、
私も心もお尻も無い。

そんな感じ。

OFUSEで応援を送る

タイトルとURLをコピーしました