震災の直後、
家も家族も仕事も何かも失った人たちに、
僕ら宗教者は何ができるのか。
なんて話しているときに、
キリスト教の人が、
何もできないです
だから、
神とともに、
悲しんでいる人とともに悲しみ
苦しんでいる人とともに苦しむ
と云いました。
寄り添うことかな。
当時高野山管長だった松長先生は、
四無量心を説きました。
すべてに仏が住んでいる。
すべては迷いがある。
すべては、本来清らかである。
すべては、だから平等である、
という祈り、瞑想。
それからね、
嫌いな人を好きになれないけれど、
愛することはできる、って。
神がいるんだもの。
ダライ・ラマも同じようなことを説いています。
相手がどのように受け取ろうとも、
相手の為を想って真摯な気持ちで相手を助けたい、
と話すときにその慈悲の実践が本物の慈悲の行いになります。
その結果、自分の心の中で本物の慈悲が高まったことによって、
自分自身が心の平和を得ることになるわけで、
自分自身がその恩恵を第一に受けます。
敵のしてくる悪い行為は許さない。
けれどその間違った行為をしている人に対しての慈悲の心を失ってはならない。
本物の慈悲の心というものは、
たとえ自分の敵である存在に対しても持たなければならない心です。
(『ダライ・ラマ法王、フクシマで語る』)
俺をだましたおまえなんか嫌いだ
でも、愛してる。
あんなことをして絶対に許さない
でも、愛してる。
もう、おまえみたいな〇〇とは付き合わないよ、
でも、愛してる。
あのね、
愛しているんだ。
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