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大日経周辺 初地の浄菩提心の相

仏教と密教

初めからある清らかな心の姿

それは誰でにでもあり、

大日経疏巻第一12に説かれます。
『密教経典』(宮坂宥勝)を、

僕流にはしょると、

浄菩提心は門戸。
そこに入ればあらゆる如来の境界に入る。
そこは言葉で説明することは難しい、
そこへ入るものは自ら知るだけ。
心が清らかなさとりを求めるときに、
大きな智慧の光が差し込んで、
もろもろの仏の実践する道が明らかになること(法明)というのは、
心の不生不滅の極限をさとることによって、
その心は(さとりを求める心の)清らかさに住して、
大いなる智慧の光明が生じ、
(その光明が)あまねく量り知れない諸存在の真実なる本性を照らして、
もろもろの仏が実践したもうところの道を見るということであって、
だから心が清らかなさとりを求めるときに大きな智慧の光が射しこんで、
そこにおいて明らかになるもろもろの仏の実践道(法明道)というのである。

法明道
大日経本文では

最初に真理を明らかにする道
と名づけています。

心の本性である、
ありのままのきよらかさ、
買ってきたばかりで汚れていないシャツみたいに。

そこに入ってみる。
そこに如来の智慧がある。

修行して達する、
元からある、
この光明とか、清らかさとか、

本当なのだろうか。
元は何もない
暗闇なのではないだろうか。

感覚もない。

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