『仏教経典散策』の「金剛経」を読むと、
如来によって説かれた<智慧の完成>は智慧の完成ではない。
ということが書かれています。
智慧というのは
一切のものには実体はなく、
それは変化し極まりがなく、
すべて縁起しているという真理を見きわめる英知のはたらきであるから、
智慧それ自体を
これが智慧であると定義づけするとは
智慧自体を実体視することになる。
この完成は持続される完成である。
一つ一つの智慧の修行が完成でありながら、
それらは連続し、
修行によって持続される完成なのである。
終わりのない完成ということである。
完成というのは限りない修行の持続の中における一つの幻想かもしれない。
完成という幻想につられて修行するが、
修行の持続において
人は完成が幻想であることを自覚するに至るものであろうと思われる。
だから、
この瞬間の印象であり、
消えて無くなるものが悟りの智慧。
生きている限り、
止まらないのだから、
完成という瞬間は流れて消えてしまう。
さあ、何を観るか、聞くか。
何も見ないか、聞かないか。
OFUSEで応援を送る


コメント