宗派の違いは縁起論の違いです。
縁起論とは悟る方法。
迷い→行い→苦
が縁起の根本ですが、
縁起論が確立すれば、苦を滅することができます。
真言宗では、
万物の本体である六大(地・水・火・風・空・識)が、
大日如来(真実、宇宙法界)の本質であり、
世界のモノと心でもあり、
相互に関わり合いながら偏在している、
という六大縁起を考えています。
この文章を読むのは眼ですが、
実は六大です。
この文章を考えるのは私ですが、
実は六大です。
全部が六大なので、全部が私とも云えます。
区別はない。
六大は、
一塵の土であり、宇宙法界全体でもあり、
一切衆生であり、私でもある。
そういう、ありのままのもの、
生滅しないもの、お互いに妨げないもの。
これは、
六大無礙常瑜伽
(六大無礙にして常に瑜伽なり)
と『即身義』にありますが、
私の身体も六大、
仏の身体も六大だから、
凡夫も仏も無礙瑜伽している、
ということ。
現実に感じている私の身体と、
理想とする達人の身体が、
鏡に映り合うように相応している。
俗の世界にいながら、
真実の言葉を唱えて、
凡聖不二を観じる。
そして、
『即身義』に『大日経』から引いてあるように、
六大が、存在の大本であるから、
本来的に不生であり、
言語による分別を超えており、
汚れに染まることがなく、
原因と条件に束縛されず、
虚空のようにさまたげなく自由である、
と体験する。
六大である仏は、
六大である自心中にあり、
自身に仏を体現する、
という感じかな。