私とか僕というものは、
実体がありません。
探してもどこにもない。
脳(心)が作った仮のもの、イメージです。
私は無い、のだから、
死んだらどうなるか、
ということもありません。
そもそも無いものが死ぬ、
ということはない。
肉体はありますが、生滅します。
生まれて、いつか滅する。
現代日本では火葬して遺骨になります。
では、
すべての人にある仏性、
仏の本性・本質、私に内在する成仏の可能性は、
どこにあるのだろうか。
私が無いのだから、
仏性の居場所も無いかもしれない。
私(心、脳)が作ったもの、イメージであり、
あったらいいなあ、
というものかな。
現象の中には本体がある、
という考えかたがあります。
生きている肉体(いのち)の中に仏性がある、
というのも、そういうことだろうか。
仏性があれば、
誰でも悟れますが、
無ければ、一部の人しか悟れない可能性があります。
だから、
仏性が必要になったのだろうか。
加藤精神博士の『佛教哲理の發達』には、
「真如法界の理は水の如き
森羅万象は波の如き
波には消滅がある。
水には消滅がない。
波が高くなっても低くなっても水は変わらない。
無明の風がやんで迷妄の波が滅すれば、
心真如の水は湛然として常住である」
とあります。
この真如が仏性。
しかしながら
常住なものがある、というのは
諸行無常、一切皆空の原則に違反しないのだろうか。