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空と0

仏教と密教

『梵和辞典』で「śūnya」を引くと、

 からの 空虚な 住む者のない 捨てられた
 乗り手のない(馬)
 うつろな(凝視)

など。

仏教語として
 零

漢訳は
 くう 空無 空虚 空義

0はプラスでもマイナスでもない中道
と考えられます。

ガスタンクからガスを抜いても、
タンク自体はあるように、
数は無いけれど0自体はあります。

書いたり見たりして、
0を認識できます。

中身は無いのに。

全てはこのように、
現実にあるけれど、実体はありません。

「私」はあるけれど、
私の実体はどこにもないように。

無いものを有るとみる、
それが
煩悩悩み迷いの始まりです。

0の立場で思惟すれば、

0は実体が無く、制限されないから自由。

自由を体験した時が、

悩み煩悩苦悩が消える時。

0は大空にも似ています。

制限なく広々として、
区別なく執着無し。

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