自分とは何か、
仏とは何か、
を探す場合、いくつかの方法があります。
今の自分は両親から生まれ、
その前は祖父母、ご先祖と続きます。
もっともっとさかのぼれば、
お猿さんだったのかもしれない。
その前は爬虫類、両生類、アメーバ・・・。
それは海から来たらしい。
となると、地球がどのようにできたか、ということになります。
さらに、宇宙の始まりにつながる。
自分を振り返ると、宇宙の始まりから生じた、と云えます。
では、その宇宙が始まる前はどうなのでしょうか。
自分の身体を考察してみます。
皮膚があり、内臓があり、血液が流れ、骨がある。
それを分析すると、タンパク質や脂肪など。
さらに細かくみれば、それらは窒素、酸素、水素などの元素、
もっと詳細になれば、素粒子などなど。
そうして分析すると、最初のひとつにたどり着くかもしれません。
では、その最初は何から生まれたのでしょうか。
宇宙の始まりの一点も、最初のひとつも、縁と条件、つまり因縁生は通用しません。
ひとつしかないのだから。
おそらく、
一つの原因で生じたのではなく、多くの原因と条件によって生じているでしょうから、
その中で、最初の一点、最初のひとつ、根本を限定することはできないかもしれない。
『吽字義』には、
「(大日経疏にあるように)およそ口を開いて発音する時には、
その音には必ず阿の声を含んでいる。
もし、阿の声が無ければ、すべての言説は成り立たない。
このゆえに、阿字をあらゆる声の母体とするのである。
阿字を観れば、すべてのの存在が固有な本体を持たないことを知る」
とあります。
この世のどんな音、声の中にも必ず「ア」の音が含まれている。
だから、すべてに含まれている「ア」こそ、真実の本初である、
と考えます。
そのように、
本初からあるもの、生じたものではないもの、
それが最初の一点、ひとつ、と考えられます。
あるがままのもの。
『吽字義』には、
「あらゆるものは縁と条件によって生じている
縁より生じるものは始めがあり、本がある。
輾転して一番最初の生起の縁となる者は何か。
其れより前に何も無いのに、どの縁によるのか。
自然に生まれるとは縁起の法則では考えられない。
縁にもよらない、自然に生じるのでもない、
とすれば、本来不生不滅ということになる。
あらゆるものは、本から有るのであって、
自然に生まれるのでも、縁によって生じるのでもない。
始めもなく、終わりもない。したがって、有も無も常住になる」
この、本来不生不滅を体験することを、
般若波羅蜜と云います。
これは思考を越えたものであり、体験する世界です。
縁と条件が無い世界では、
悟りも迷いもなく、
浄不浄もなく、
大空のように広く、さえぎるものが無く、
自由で無限なはずです。
続けて『吽字義』には、
本来生起しないありかたこそ、全ての根源であるとし、
「あらゆるものが生じるのを見る時には、
実にこの本来生起しない在りかたをみているのである」
「本来生起しない在りかたという究極的な在りかたをみるものは、
ありのままに自己の心を知ることにほかならない
自己の心をありのままに知ることは、すなわち仏のさとりの智慧と異ならない」
現実の肉体がある自分は、
宇宙の始まり以前の無限から生まれています。
本当の自分はそこにある、
そう考えることもできます。
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