落語「擬宝珠」によると、
金属舐めが趣味の人は少なくないらしい。
若旦那は、
夢にまで見た浅草寺の如意宝珠を舐めます。
写真の宝珠は御影石。
如意宝珠はサンスクリット語のcintā・maṇiの訳。
宝珠のmaṇi(マニ)は、
多くの仏典、真言に登場します。
『御遺告』二十四に
如意宝珠について細かく説かれています。
「宝珠は自然道理の如来の分身であるというのが、真実の如意宝珠である」
そして、
「あらゆるものの主体となる性質を持つ」
とあります。
宇宙は仏の本体、エネルギーが充満しています。
その中で、
常に何かが生まれては消えます。個々の現象として。
如意宝珠は、
全てを生み出す大宇宙を象徴したもので、
宝珠の球底が実在(真実・仏)
その尖端は個々の違いがある現象。
尖端が「私」
球底が宇宙・仏・悟り
という感じ。
宇宙大の如意宝珠をイメージして、
その尖端が私の身体。
私の心は、
如意宝珠球底につながる大宇宙。
大宇宙は、
他の尖端を生じ、
自分以外のすべてにつながっています。
宝珠は虚空の象徴でもあります。
虚空は染まらずこだわらず、すべてを包み込んでいます。
それは、本来の心のこと。