目の前にパソコンは「実際に」ありますが、
「私」はどこにもありません。
いろいろなものが集まっているものを、
仮に私という名で呼んでいます。
実際にはどこにもないのだから、
固執できないはずです。
「私」が無いのですから
私の身体、私の心、私のもの、というものはない。
二本の腕があります。
実際にある。
これは私の腕ではなく、
ただ、腕があるだけ。
すべてのものから
「私の」という枠を取り外してみましょう。
それは実際には無く、
イメージだけですから。
このトレーニングは、
心を平安にします。
否定の立場で考えると、
本当は無い私が、
私のものとイメージするのは錯覚。
悟りも煩悩も同じ、
本当は無い。
般若心経にあるように、
苦も無い、苦の原因もない
つまり、錯覚が無い。
肯定の立場では、
苦も、苦の原因もあり、
それは如来からのサイン、説法、
真理の表現のひとつである。
全ては如来の三昧耶身
親が子を生むように、
大地から草が生えるように、
粘土からいろいろな形を作ることができるように、
迷いも苦も、
如来(真理・自性清浄心)から顕現している。
『金剛頂蓮華部心念誦儀軌』に、
「諸法の性は皆自心に由る」
とあります。