全てのものは生滅し、変化する。
固定的常住不変なものはない、
という真実があります。
真実は本来姿の無いものであり、
見えないし説明できないけれど、
その本来姿なきものである真実が実相。
ありのまま、
と云ってもいいかな。
仏性も法身も実相。
自心は実相であり本尊。
『声字実相義』には、
「それ如来(大日)の説法は必ず文字による、
文字の所在は六塵(色・声・香・味・触・法)その体なり。
六塵の本は法仏の三密これなり」
「いわゆる声字実相とはすなわちこれ法仏平等の三密、衆生本有の曼荼なり」
法身(真実)の動きである、おこない・ことば・おもいを実の如く知ることが悟りですが、
衆生が悟りに到達するためには、教えによらなければならない。
その教えが出現するためには音声文字が無くてはならない。
その音声文字が分明であればあるほど、
法身の動きとしての、
真実のすがたが明らかにあらわれてくる」
「その音声文字によってあらわれる実相とはなにかといえば、
法身の動きとして、いかなるものにも平等にゆきわたる三密にして、
衆生が元から具有している曼荼羅 のことである」
衆生と宇宙と、
五感と各人の心を貫く本体が法身。
その働きが実相。
音声や文字の言葉(声字)が真実のあらわれ
ということかな。
こだわりやとらわれ、
自他の仕切りがなければ、
全ては実相。
そうなると、
真実と現象は不二
主観と客観は不二
だから、
自分と仏
迷いと悟りも不二
そういう風に考えます。