「生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く、
死に死に死に死んで死の終りに冥し」
『秘蔵法鑰』
自分はどこから生まれ、どこへ死んでいくのか、
生まれるとは何か、死とは何か。
そんなことは何も考えずに人生を送っている。
生死がわからないのは、
自我があるから、
というのが仏教の立場です。
「凡人はこの肉体を真実の我とおもいあやまり、
おろかさの酒に酔って、それに執れている」
人生は迷いである、
そこから抜け出して、
宇宙と一緒になろうではないか。
日本では
人が死ぬと火葬にします。
身体の大部分は気体になって大空へ帰ります。
少し、カルシウムが残り、大地へ帰る。
脳は無いので心もない。
残された人の脳に思い出として残ります。
因果の法則によれば
原因を突き詰めてゆけば最初の一点にたどり着きます。
しかし
その一点は何から生じたのか、
原因が無いので因果の法則は通用しない。
自然に生まれたとか、
創造主が造ったとかは戯論と考えます。事実とは考えられない。
なので、
本来生起しないありかたがある、
という立場をとります。
すべては生じては滅するから実体はない。
実体のないものは不生不滅である、と。
時間を線で考えると
生滅があります。ここからここまで、と。
時間を円で考えると、
ぐるぐる回って始まりも終わりもない。
無限です。
大きな大きな円・無限から、
生じては滅しているものが私。
無限から生じて無限に帰る。
もしくは、生じないというありかた。
執着なく、区別なく、
個別心ではなく全体心、ひとつの心
という世界