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普段の行いと思い

仏教と密教

十善戒の第一、不殺生
生き物を故意に殺してはならない。

殺生という行為、または思いは、
業(カルマ: karman)であり、
善因善果、悪因悪果などと云って、
因果の法則により、
報い(果報)をもたらします。

殺生した人としない人、
殺生しようと思う人と思わない人の、
結果が同じと考えにくい。

消毒はどうなのだろうか。

業について密教ではどう考えるのか。

『菩提心論』三摩地段に、
「一切有情の心質の中に於て一分の浄性あり。
 衆行みな備はれり。
 その体極微妙にして皎然明白なり」
すべてのいのちあるものの一心の本質中に、
ほんの少しの清らかな性質があります。
それが次第に発展すれば、
満月のような円満な悟りとなる。
だから、
初めの、ほんの少しの清らかさの中に、
すでに自分の悟りと、他者を救う行が備わっている、
ということ。
これが仏性。

この、
誰にも本来具わっている仏性は、
知っても知らなくても、
何がどうなっても変わらない。

『声字義』には、
「衆生にまた本覚法身あり、仏と平等なり。
 この身この土は法然の有なり而已。
 三界六道の身及び土は、業縁に随って有なり。
 これを衆生の随縁と名づく」

栂尾先生の訳では、
一切の衆生は本来覚了した法身としての本性を具している。
この上からは仏と平等にして何らの隔てがないのであるから、
この身もこの国土も法爾自然の存在である、

つまり、
すべての存在者は、あなたも僕も、
自分の意志とは無関係に法身(真理の本体:ブッダ)です。

法身であることは、存在しているものの事実であって、
業・行為によって生じたのではありません。

村上先生は、
『空海の十住心思想と六道輪廻』のなかで、
「その存在性が仏と平等の法身であり、
 その本質が仏性である限り、
 いかなる業を積もうとも、
 存在性においては業因から自由である。
 空海は、十界の存在者を「法然・随縁」の存在と捉えることによって、
 一切の存在者が業因による存在決定から自由であることを明かしているのである」
と書いています。

存在性において、です。


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