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密教、仏教、精進料理、望診法の

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仏教と密教

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しまっておく

掛け軸を何本か持っています。 それぞれ、床の間に架けるのは、ほんの短い期間。 しまってある時間のほうが長い。 しまう月、しまう蓮華、しまう本尊、 拝むときだけ出す。 時々出して広げる時が楽しい。 しまってあるからいつまでも美しい。 大切なも...
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悟りの味

菩提さとりの心を形で観ずるときは月輪 文字をもっていすると阿(a)字である と『菩提心論』にあります。 そして、 もともとある悟りの心をよくよく観察すると、水の静かにして清浄なるが如く、満月の光の虚空に遍満して、恍惚としてあらゆる分別はから...
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コンピューター入門

コンピューターは、 ①入力装置―②記憶装置(メモリ)―③演算・制御装置(CPU)―④出力装置 で構成されています。 心の世界では、 万物の本体を、地水火風空識の六大 万物の姿を、四つの曼荼羅 個々の働きを、身密・口密・意密の三密 と説明して...
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勉強・修行すると、

心とは何か、を体験できます。 心には本体と姿が無く、働きのみがある。そもそも、心は脳の働きであり、「私」と同じように実体はなく、実在もしない。 全ては、思わなければそうならないし、思う通りに世界は現れ、心のありかたで世界は変わる。どう思うか...
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心臓に白蓮華を

宇宙の中心に白蓮華(仏の住居)があります。同じように、自身の心臓に白蓮華を観想します。泥から生えて、泥に染まらないように、愚かさの迷い、貪り、怒り、怠惰の世界に生きながら、善にも悪にも染まらない。私の中心はそういうもの。 イメージしてみまし...
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どこにもいない私

目の前にパソコンは「実際に」ありますが、「私」はどこにもありません。いろいろなものが集まっているものを、仮に私という名で呼んでいます。実際にはどこにもないのだから、固執できないはずです。「私」が無いのですから私の身体、私の心、私のもの、とい...
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究極の現実

全てのものは生滅し、変化する。固定的常住不変なものはない、という真実があります。 真実は本来姿の無いものであり、見えないし説明できないけれど、その本来姿なきものである真実が実相。 ありのまま、と云ってもいいかな。 仏性も法身も実相。 自心は...
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苦が消える時

心を観察する、自心を知る、それが悟りである、というのは頭ではわかるけれど、実際にはどうするのか。 密教には自心に直入する方法があります。それが三密行。 身密からだのひみつ・口密ことばのひみつ・意密おもいのひみつ 自分のおこない、ことば、おも...
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無臭の人

「この店(注記:三越前「はやし」現在閉店)には、油の匂いがしない。 よほどに、よい油を、しかも惜しみなく使っているのだろう。 腹いっぱいに食べて帰宅し、四、五時間もすると、 また、腹が空いてくるのだ。いささかも、モタれない」(『散歩のとき何...
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「密教アトランダム」

密教周辺の軽いお話をしました。どうぞ、ご視聴ください。 お布施ボタン